文禄・慶長の役

[1] 名前:名無しさん :2013/10/14 (月) 23:21:33 No.265
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半島を舞台にした日明戦争。

明軍が関わった数万単位の合戦で、明確に明軍の勝利と
言えるのは第三次平壌攻めくらい(おまけに不意打ち)

第二次平壌の戦い(日本勝利)
第三次平壌の戦い(明軍勝利 勧告により小西が城を明け渡す)
碧蹄館の戦い(日本勝利)
稷山の戦い(日本勝利)
南原城の戦い(日本勝利)
第一次蔚山(日本勝利)
第二次蔚山(日本勝利)
泗川 (日本勝利)
順天(日本勝利)
露梁(日本勝利)
[2] 名前:名無しさん :2013/10/16 (水) 11:33:55 No.266
当時の資料から判断すると、

明史や李朝実録に記されているように1598年時点で、
明朝両国は日本に勝てる見込みはなかった。

そんな状態で1599年に予定されていた秀吉軍の
一大攻勢を受けていたらどうなったか?
そもそも慶長の役は、明ではなく半島南部の割譲が目的だったので、
その企図は成功していた可能性が高い。

朝鮮式田植えは、田んぼの種を落として
あとは収穫をを待つだけという杜撰極まりないもの。
農機具も、同時期の日本と比べて劣っていた。

慶長の役後に、秀吉軍が持ち込んだ日本式の田植え法により、
それを実施した田畑は収穫量が上がった。

半島南部割譲に日本の諸大名の当地を受けていたほうが、
南部居住の朝鮮民衆は幸せだったかもねw
日本内地からも買い付けや輸送もできるし。
[3] 名前:名無しさん :2013/10/22 (火) 01:51:39 No.267
慶長の戦いの概要。

南原城の戦い・稷山の戦い、巨済島、いずれも日本勝利。
過大評価されている鳴梁海戦では、日本水軍の中型船のみを用いた先鋒に
損害を与えたが、その後は日本水軍の圧力に耐え切れず、
李舜臣は北に逃走、全羅道も制圧され、水軍基地も占領された。
末期の戦いでも、
泗川の戦い (島津軍 7000VS明朝軍29015)島津の報告3万8千討ちとる 明史8万を失うとある いずれも誇張だろうが、大損害を被ったことは推測できる。
順天城攻防戦(小西軍13700VS明朝軍55000)陸海とも多数の死傷者と舟23〜39を失うとある 僉使黄世得も戦死
第二次蔚山城(加藤軍10000VS明朝軍29500)権応銖の報告では明軍の被害は数え切れないとある。

もいずれも明朝軍が敗北を喫している
12万以上を動員した一斉攻勢は失敗した。

宣祖実録十月十二日↓
全ての攻撃で敗退した。これにより三路に攻めた明・朝鮮軍は
溶けるように共に潰え、人心は恐々となり逃避の準備をした

南原城の戦い・稷山の戦いも日本勝利。
露梁の戦いも、島津の8000と明軍と朝鮮軍の2万&伏兵という好条件にもかかわらず、
朝鮮軍は李舜臣が討ち死に、明軍もケ子竜が討ち死に。 島津軍と小西軍を殲滅でなかった。

以上のことから明朝鮮に負けた要素は探し出せず、日本軍の自主撤退が実像。
[4] 名前:名無しさん :2013/10/25 (金) 01:32:58 No.268
宣祖実録の記録と、小西行長とその将兵から聞き取りしたフロイスの記録に残る、
日本人に成りすまして、略奪暴行する朝鮮人の記録↓(今も昔も変わらないね)

唐武陣 文禄・慶長の役の偏り2 民衆の騒乱
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcvk4n5gd
[5] 名前:名無しさん :2013/11/08 (金) 17:08:09 No.272
交渉期間中に(1594-96)秀吉軍統治区域で暮らす朝鮮人の
様子が李氏朝鮮の記録に残っている。

西生浦付近の百姓らは、悉く日本の占領地に立ち返って農耕に従事し、
租税を清正に収めているばかりではなく、日本の風俗に従って起居し、
遠近の商人らが互いに往来して市が賑わっていることが、
清正の副将美濃部金太夫と要時羅の書面に依って明らかになった。
朝廷では敵の交通路を断ち、より活発に敵中の百姓らを招慰する方針を
都元帥以下諸官に密命した。

宣祖実録巻六十一 三月甲戌 懲録巻四
[6] 名前:名無しさん :2013/11/24 (日) 05:48:51 No.275
あの国は昔から法則発動してたんだな
[7] 名前:名無しさん :2014/01/11 (土) 23:21:27 No.276
朝鮮の記録からわかる休戦・交渉期間中の1595年-1597年の秀吉軍占領地の様子。

朝鮮の密偵が、秀吉軍地域に潜入して、金海、釜山、東莱、西生海周辺で
活動をおこなって、密偵が把握することができた朝鮮人の戸数は2080以上。
また別の情報では、東萊には1000余の戸数があるとの情報を得ていた。
日本人が建てた家に朝鮮人たちが居住したり、
金海府では日本人と朝鮮人が入り乱れて住んでいるとある。

金海、釜山、東莱の住人で農耕に出る者の3分の2が朝鮮人であり、
その中には、日本人と同じように頭を剃り、お歯黒にしていた者もいた。
そして彼らは農耕の年貢を日本の統治者に収めて、日本人と同化しており、
敵であったことも忘れさっていると報告されている。
漁を生業としている海辺の民たちは、魚を売買していた。
釜山や西生浦等では、市場が開かれており
とくに釜山が一番賑わっており、日本人の男女と
朝鮮人たちが日々、交易していると記されている。

その日本人と商売をしていた朝鮮の人々の様子をみると。

遠近の李氏朝鮮の領内から、商人たちや朝鮮の民たちが商取引おこなうために、
李氏朝鮮に気兼ねすることもなく秀吉軍地域に大量に流入している。
彼らは日本人と親密にやりとりをし、両国人が互いに往来しあい、
まったく警戒する気配もなかったとある。
さきにあげた農民たちと同様、これら商人たちや民衆たちは、日本人と往来して売買しているので、
すっかり馴染んで、日本人を同類のように思っていると報告されている。
中には朝鮮側の機密を流したり、日本将の御用商人&腹心になっていた者たちもいた。
李氏朝鮮は取締りを開始しするが、
効果は薄く、上記の状態が、慶長の役寸前まで続き、悩まされるた。
ちなみに慶長の役でも、朝鮮商人は商売をしていた。


河甘同なる者が、朝鮮の主力戦艦、板屋船一艘を李氏朝鮮で定められた工程で、
建造して、西生浦の加藤清正に献上していた。
当然ながら李氏朝鮮は大変驚愕し、河甘同をすぐに行刑するべきだと。

http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffc3dtdnwa
[8] 名前:名無しさん :2014/03/17 (月) 20:30:55 No.277
当時の日明朝鮮、宣教師の各種記録に、
李舜臣・朝鮮水軍のせいで補給が途絶えたという
記録は一切載っていない。

逆に、初期の10ヶ月間ほどの補給不足は、
地形の険阻さ、輸送隊の往復の食料消費、
冬到来による船の渡航制限、これまた冬季到来による
陸上部隊の移動制限が原因とハッキリ書かれてる。

そして冬が明けて、春が来れば海峡も穏やかになって
補給が再開できると記され、実際にそのようになり、
釜山周辺は1年6ヶ月以上も持ちこたえられるほどの、
物資に溢れていると記されている。
[9] 名前:名無しさん :2015/02/08 (日) 14:23:56 No.283
日本軍は飢餓寸前でやっとこ帰還したという話はどこから出たの?
[10] 名前:名無しさん :2015/02/13 (金) 02:01:05 No.284
※9
最前線の漢城は1593年4月までの兵糧があると秀吉に宛てた報告書が残っている。

日本軍の大軍が漢城に集結していた文禄2年の4月時点、
春季になり日本-對馬-釜山間の海峡も穏やかになったので、
釜山には莫大な量の兵糧弾薬、薪炭野菜の種子まで
輸送されていた。

そして、大規模輸送と同じく漢城では碧蹄館で大敗し、
日本軍に勝つ見込みが見いだせなかった明が使者を派遣して、
小西行長らと和平交渉をしていて、明側が2名の使者を日本に派遣して和平を
乞うという内容で協定が結ばれて、
それで日本軍は釜山周辺まで移動した。

前線主力の兵糧が消費しつくされる時期と、
和平交渉が結ばれた時期が一緒だったから、
韓国朝鮮や日本の左翼学者たちが、
【飢餓状態で這う這うの体で後退した】という風に
さら宣伝したからそういうイメージがついてしまった。

しかし、李舜臣の捏造、南京、慰安婦関連、二度にわたる蒙古襲来(実は終始日本軍優勢だった)
これらが従来の説が嘘捏造、偏向、誇張だったことがわかってきており
文禄慶長の役の偏向した内容も是正されていくだろう。

[11] 名前:名無しさん :2015/10/17 (土) 15:07:53 No.289
文禄・慶長の役で押さえておきたい初歩ポイント

1・補給・兵站に関して

この時代の補強、兵站の概念は東西南北を問わずに
現地調達か基本であったこと。
そのため軍隊が長距離を進軍して、損耗していくのは、
世界戦史上珍しいものではなかった。(例として30年戦争やスペイン戦争など) 
故に、秀吉の遠征軍がなにも【特異な失敗】ではなかった。

文禄においても、補給自体は届いており占領しているソウルにまで、
補給が滞ったのは、地形地物の険阻さ、補給隊の往復の兵糧消費、冬季到来による
船舶の渡航制限&陸上部隊の移動制限であると、当時の諸将の報告書に残っている。
これ自体も、当時の外国の各種戦争においても類似例は多数ある。

むしろ文禄2年から慶長3年の間、3万〜20万の遠征軍の補給を
日本からの単独渡航だけで賄っていたことは、軍事史においても特筆してもよいレベル。


2・慶長の役は半島南部の城に籠ってでられなかったという説について。

遠征軍が慶長3年の間は、朝鮮の焦土作戦や明軍の圧迫、朝鮮水軍の行動により
北上することができなかったという主張が韓国朝鮮、日本の自虐史観系の学者によりなされているが、
日本及び朝鮮側の資料を意図的に無視した悪質な隠蔽と言わざるを得ない。

遠征に参加した立花家や鍋島家の記録には、遠征軍の作戦目的がはっきりと記されており、
慶長2年(1597)は全羅道と忠清道の掃蕩、その後は半島南部にて築城及び迫る敵の撃破。 遠征軍の大半の帰還休養
慶長3年(1598)は慶長4年の首都ソウル陥落を目指すための準備期間であった。

慶長3年初頭から夏にかけて、遠征軍の一部は全羅道と慶尚道に積極的に攻勢にでており、
出撃回数は10回以上と朝鮮側の記録に残っている。

慶長の役は、慶長2年から3年の間は、南限城、黄石山城、稷山、第一次蔚山城、第二次蔚山城、順天城、泗川城
いずれも遠征軍が勝利を収めている。


長くなったので今回はここまで。
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