【世界の中の日本の歴史】日清戦争から第2次世界対戦まで

[1] 名前:名無しさん :2012/08/28 (火) 14:52 No.423
423.jpg (108KB)
わかりやすく説明してくれてた人がいたので資料として貼っておく。


>管理人様
メモ代わりにスレ使ってごめんなさい
[18] 名前:名無しさん :2012/08/28 (火) 14:58 No.440
82:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 17:51:02.35 ID:kQ/k0zjU0

>>80つづき
日本の極東アジアでの台頭により権益を奪われるのでないだろうかという警戒はイギリスも同様だった。
1921年、四カ国条約が締結される(日本・アメリカ・イギリス・フランスの四カ国)
太平洋における領土と権益の相互尊重と、諸島における非軍事基地化、というのが建前だったが
日本の南下にブレーキをかける狙いがあったのはありありと見てとれる。
そして約20年間日英同盟はここに消滅する。

一説にはアジアでの日本の台頭を快く思わないアメリカが日英同盟を取り消すために仕掛けたともいわれる。
その結果日本と同盟を結んでいる国はいなくなってしまい、常任理事国入りこそしているものの孤立してしまう
[19] 名前:名無しさん :2012/08/28 (火) 14:58 No.441
89:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 18:14:02.46 ID:kQ/k0zjU0

>>82つづき
かつてイギリスの手のひらの上で踊らされていた日本。
そんな国がいつの間にか意思を持ち、コントロールができなくなるとはイギリスも思っていなかったであろう。

同じくそのころ、戦勝国では戦艦建造が流行であった。
第一次世界大戦での海戦で戦艦の重要さが増したのである。
その結果どの国も多くの強力な戦艦を作ろうと躍起になり建造競争を行っていた。
日本も例外ではなく八八艦隊などの建造計画をぶち上げる。
当時の戦艦は今でいう大陸間弾道核ミサイル並みの影響力があったのだ。
だが当然軍備増強が進めば進むほど世界情勢は不安定になり、国の経済負担も増す。(いい例が冷戦やソ連崩壊)
そんな中1921年、軍縮条約が行われる

ワシントン軍縮条約である

各国とも戦艦の保有できる数を制限し、ブレーキをかける狙いだった。
[20] 名前:名無しさん :2012/08/28 (火) 14:59 No.442
92:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 18:24:58.22 ID:kQ/k0zjU0

>>89つづき
提案したのはまたもやアメリカである。
この軍縮条約で日本は対米六割の戦艦保有数を決められ、当時未完成艦だった戦艦陸奥は廃棄を言い渡されるが日本は完成していると主張。
結果アメリカとイギリスに二隻の新型戦艦を建造することを日本は認めることとなる
(これは1隻だけでは整備などでドックに入っていると戦力が大幅に弱体化する等の運用上の欠点となるため意地でも二隻保有をしたかった。)
これらの艦船は16インチ砲を搭載しており、世界のビッグセブンと呼ばれた

ちなみに前述の八八艦隊が実現していた場合、建造に国家予算の三分の一、維持だけで半分が消えたといわれる。
日本としては胸をなでおろしたことであろう
[21] 名前:名無しさん :2012/08/28 (火) 14:59 No.443
96:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 18:44:41.85 ID:kQ/k0zjU0

>>92つづき 

そしてこのころから日本には暗雲が立ち込める。
今までが光の時代だったとすればこれからは闇の時代である

まず第一次世界大戦が終わった後、経済恐慌が起こる
戦争が終了したことによりモノが売れなくなってしまうのだ。
また、経済発展が都市部では活発だったが農村部ではそれほど発展しておらず、経済格差が生まれつつあった。

そして1923年には関東大震災が起こり東京が壊滅的被害を被る。
(この中で朝鮮人が暴徒化したとか言われているが実は新聞社が虚報が原因)

さらに1929年には世界恐慌が起こり
植民地の少なかった日本経済には壊滅的被害を受けることとなる

その次の年の1930年には米が豊作で米価が下落し豊作貧乏なる

その4年後の1934年には東方地方で歴史的な不作となる
この時には農家の娘の身売り等が社会問題になるなど

第一次大戦後の日本は惨憺たる境遇であった。
[22] 名前:名無しさん :2012/08/28 (火) 14:59 No.444
98:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 18:51:25.30 ID:kQ/k0zjU0

>>96 ちなみに1925年に日本で普通選挙がおこなわれる。
(このとき買収選挙なんかもあって300人近く摘発されてる)

1930年二回目の軍縮会議が行われる

ロンドン軍縮会議である。

内容としては大したことではないものだった。(空母や巡洋艦などの補助艦艇に関する会議だった。)
しかし、この後些細なことから日本では軍部の台頭が始まっていくのである
[23] 名前:名無しさん :2012/08/28 (火) 14:59 No.445
107:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 19:12:57.18 ID:kQ/k0zjU0

>>98つづき
当時日本の陸海軍の統帥権(軍の管理権限)は天皇であった。

どうしてそうなったのか、というのは教科書には書いていない。

1878年竹橋事件というものがあった。
内容は天皇の近衛部隊が反乱を起こしたのである。(理由はググってくれ)
反乱はすぐに鎮圧されたが明治政府は大きな衝撃を受けた。
軍はきっかけがあれば叛乱を起こす、という可能性がある
その軍をどうするか、これが時の明治政府の悩みだった。

自由民権運動が始まり、さまざまな人間が入ってくる。
その中で混乱が起こり、国がコントロールできなくなる恐れもあった。
また、もし運動家などが政権を握り、その時政府に統帥権があればとんでもないことになってしまう恐れもあった。

そこで政府と軍を切り離すことができれば、政府と軍の暴走を防ぐことができる。
しかし軍だけを独立させるのは危険である、そこで天皇直属の機関ろすればいい。
そう考えたのだ。
建前上は天皇直属の機関だったが実際こんとろーるしているのは政府だった
[24] 名前:名無しさん :2012/08/28 (火) 15:00 No.446
113:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 19:37:58.68 ID:kQ/k0zjU0

>>107つづき
このことを決めたのは時の総理大臣、伊藤博文である。

しかし伊藤博文の思いとは裏腹に昭和時代にこれが仇となる事件が起こる
先のロンドン軍縮会議である。
この会議に参加・調印したのは政府の人間なのである。

当時は野党は隙があれば徹底的に糾弾する姿勢だった。
(似たような話を最近聞いた気がするのは気のせいだろうか?)
そしてこのロンドン軍縮会議も政争の道具に使われることとなる。

軍縮会議後に開かれた議会で、当時の野党(立憲政友会)総裁、犬養毅がこう言った。
「政府が勝手に軍縮条約を締結したのは統帥権の干犯である」

と。
[25] 名前:名無しさん :2012/08/28 (火) 15:00 No.447
118:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 19:51:11.48 ID:kQ/k0zjU0

>>113つづき
つまり

「日本の陸海軍は天皇直属のものであり、政府が勝手に軍縮を決めるのはおかしい」

ということである。

立憲政友会としては特に深い思いがあったわけではないだろう。
ただ隙を見つけたから政府を攻撃したという野党の習性だろう。

当時軍部は軍縮で予算が削られていた。そこでここぞとばかりにこの問題に飛びついたのである。
結果これ以後政府は軍部に干渉することが難しくなった。
政府が干渉しようとするたびに「統帥権の干犯」だとして軍部は撥ね退けたのである。

この発言は政党政治にとっては自殺行為であった。
本来軍をコントロールしなければならない政治家が「軍を犯すべからず」と言ったも同然だからだ。
[26] 名前:名無しさん :2012/08/28 (火) 15:00 No.448
123:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 20:04:47.15 ID:kQ/k0zjU0

>>118つづき
日本政府は決して開けてはならないパンドラの箱を開けてしまう。
そして日本政府の手を離れた軍部は壊れるまで止まることのない巨大なスチームローラーとなって暴走を始める。

1931年、日本はとうとう満州に対して食指を伸ばし始める。

そう、満州事変である。

この満州事変のことの発端である柳条湖事件は皆の知っての通り日本軍の自作自演である
そして日本はわずか5カ月で満州全土を掌握する。
[27] 名前:名無しさん :2012/08/28 (火) 15:00 No.449
128:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 20:22:13.49 ID:kQ/k0zjU0

>>123つづき
この満州事変を時の政府が収拾することはできなかった。

次の年とんでもないことが起こる

五・一五事件である。

首謀者は日本海軍の軍人であった。
反乱を起こした理由はロンドン軍縮会議に締結したことに不満を持っていたからである。

しかしその締結した時の政府、立憲民政党はその後の選挙で大敗、1932年には犬養毅の立憲政友会が政府となっていた。

しかし計画は実行され犬養毅は暗殺されてしまう。

かつて「政府が勝手に軍縮条約を締結したのは統帥権の干犯である」と軍部の暴走の引き金を引いてしまい、
自らその暴走に巻き込まれてしまったのである。
何という皮肉であろうか。

その後首謀者たちは軍法会議で裁かれるがそれほど重い罪ではなかった。

理由は一般市民から助命嘆願運動があったためである。
[28] 名前:名無しさん :2012/08/28 (火) 15:00 No.450
129:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 20:29:04.05 ID:kQ/k0zjU0

>>128つづき
当時の政府や財界は相次ぐ天災や世界恐慌に何ら対策を取ることができなかった。
またそれら以外にも格差社会の問題や農村の困窮などの問題も多々あった。
そんな中行われた軍部の上層部に対する叛乱は一般市民にとっては正義の味方に見えたのであろう。

ちょっと風呂に行ってくる
次は二・二六事件か日本がどうして満州に攻め込んだのかとか解説したい。

ちょっと待っててね。
[29] 名前:名無しさん :2012/08/28 (火) 15:01 No.451
141:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 21:03:16.46 ID:kQ/k0zjU0

>>129 なににせよこの五・一五事件によって日本のシビリアン・コントロールは完全に崩壊した。
しかしまだこの時点では軍部の暴走を止める方法があった。
それはマスコミの存在である。
当時はテレビやインターネットなどあるはずもなく、ラジオもそれほど普及しておらず、新聞の役割は非常に大きかった。
マスコミは1930年当時まだそれほど軍一色ではなかった。
(ただしどこそこの戦いで日本軍が勝利した、とかの好戦的な記事を書くと爆発的に売れたという)
特に朝日新聞は犬養毅の問題発言のときも非難していたし、満州事変による懸念なども書いていた。
しかしこのことにより各地で不買運動が起こり、朝日新聞は最終的に折れてしまい、以後好戦的な記事の割合が大幅に増えることとなる。
もし朝日新聞が折れずにいたら軍部の暴走は止められた・・・かもしれない。

今でこそ「太平洋戦争は軍部が悪かった」と言われるが、自分としては軍部だけではなく、政府・マスコミ・国民それぞれに責任があったと考える。
[30] 名前:名無しさん :2012/08/28 (火) 15:01 No.452
145:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 21:17:11.68 ID:kQ/k0zjU0

>>141つづき
そして1933年、日本の孤立を決定的になる事態が起こる。

国際連盟の脱退である。

ことの始まりは満州事変、それに続く満州国の建国である。
それらに対して国際連盟は満州事変・満州国の調査のためリットン調査団を送り込んでくる。
この結果を不服とした日本は国際連盟を脱退してしまう。

ちなみに調査結果は特に日本に不利なものではなかった。
北酷暑では日本の満州国における特殊権益を認められていた。
しかし日本は満州国が国際的な承認を得ることを目的としていたため不服としたのである。
[31] 名前:名無しさん :2012/08/28 (火) 15:01 No.453
150:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 21:33:22.36 ID:kQ/k0zjU0

>>145 そもそもなぜ日本は満州を手に入れようとしたかというと、経済的な背景と当時の国内情勢が主な理由である。
経済的な背景として、まず南満州鉄道(通称満鉄、弾丸特急なデザインのあじあ号が有名)である。
南満州鉄道とは満州の中心部から海までの大動脈ともいえる700キロの路線である。
ちなみにこの路線はもともとロシアが保持していた権利を日露戦争後日本が手に入れたものである。
また、南満州鉄道は「鉄道」と付いているが鉄道以外に炭鉱開発や製鉄業・電力業・農林業・都市開発など様々な事業を行っていた半官半民の特殊会社である。
そしてその収益は1928年には4551万円である。(当時の金額で)
当時の国家予算が15億円であることを考えるととんでもない数字である。
[32] 名前:名無しさん :2012/08/28 (火) 15:01 No.454
156:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 21:58:40.11 ID:kQ/k0zjU0

>>150つづき
経済的な背景のもう一つとして戦争景気である
大日本帝国になってから日本は負けたことがなく戦争によって国力を増大させてきた国だった。
戦争中毒と言ってもいいだろう。
確かに戦争が起これば景気は上向きになる。
が、不確定要素も多く、ギャンブルのようなものである。
日本国民はこの満州事変もこれまでのように勝利し、国力は増強され、景気が上に向くと考え、リスクに目を向けず軍部の背中を後押ししたのだ。
世論という力を使って。
もし負けたらどうなるか、それはみなさんの知っているとおりである。

そしてもう一つの理由国内情勢である。
当時日本では近代化による人口爆発が起こっていた
幕末には3000万人だった人口が昭和初期になると6000万人を超えていた。
わずか60年ほどで人口が倍になってしまったのである。
当時の政府は日本国内ではまかないきれないと考え、南北アメリカやハワイ・朝鮮半島への移民を行っていたが
昭和初期には受け入れてくれる国はほとんどなくなっていた。
そこで満州に目をつけたのだ。
計画では500万人を移住させる計画もあった。
国は貧困農家向けに開拓移民を募り満州の原野を開墾させるなどしたが満州の冬はマイナス30度を下回り、
伝染病や栄養失調、さらには匪賊(山賊みたいなものただのゴロツキから政治的集団までいろいろいた)も満州では出没していた。
また、満州の開墾された土地は日本人は手をつけない、という建前があったため開拓移民にあてがわれたのは何もなされていない原野だった。
が、適当な理由を付けて開墾された土地を買い上げ日本人にあてがったということもあったそうである。
その結果満州内での日本人に対する評判はあまり良くなかったそうである。
[33] 名前:名無しさん :2012/08/28 (火) 15:02 No.455
171:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 22:49:58.44 ID:kQ/k0zjU0

>>156 つまり南下して植民地を新たに獲得することができない以上、北へ向かい満州を手に入れるしか日本には道は無かったのである。
しかし満州に固執した結果、以前から大陸の権益を狙っていたアメリカとの関係は悪化の一途を辿っていく。
そんな1936年事件は起こる

二・二六事件である。

当時日本の情勢は最悪であった。五・一五事件の時よりも状況は悪化しており、東北では歴史的な不作となり政府は何一つ有効な対策を取れなかった。
また、歴史的な大恐慌の中三井や三菱・住友といった財閥はそんな中でも為替差益などで莫大な利益を得ていた。
この社会情勢に対する不満に加え、天皇主体の国家を作ろうという考えが芽生えてきていた(昭和維新)
これらの情勢の中クーデターは行われる。
が、肝心の天皇が叛乱軍とみなしたため失敗に終わる。
この際政府は事態を収拾することができず、陸軍に一存するしかなかった。
また、クーデターは陸軍が主体となって行われたため、海軍は鎮圧部隊を派遣するなどしていた。
もしクーデターを陸軍が認め成功していたら陸軍と海軍で内戦になっていた可能性もある。

また、当時日本では徴兵制を行っており、国民の大半は農民だった。
クーデターの主要メンバーの若手将校は農民出の部下たちから農村の窮状を見聞きしていたため、私腹を肥やしていた財閥もターゲットになっていたのである。

開国から70年余りが経過し、世界の一流国家となった大日本帝国。
だがその速すぎる発展に社会が追い付かず様々な歪が起きていた。
その代表的なものは農村部の困窮と言える。

また、政治が腐敗し、国内情勢が悪くなればどうなるかというのがよくわかる事件だと言える。
[34] 名前:名無しさん :2012/12/05 (水) 17:39 No.458
ためになるスレだなあ(゚Д゚)
[35] 名前:名無しさん :2013/03/17 (日) 10:32 No.463
統帥権干犯を最初に言い出したのは、226事件の思想的指導者、北一輝。
新聞に投稿したのをたまたま犬養が読んだんだろう。
憲法学者たちにしたら、変な話しだが、パンドラの箱なんだよね。
上杉のような右から、美濃部の機関説派までこれは触れたく無い話。
やはり暴走する軍隊を想定していたのか、穢れた政治と軍事に天皇を触らせたくなかったのか。
[36] 名前:名無しさん :2013/09/16 (月) 10:28:50 No.476
盧溝橋事件でも、日本の政府、現地軍は度々和平交渉の場を、
設けたにも関わらず、中国側の度重なる挑発や妨害してた。
当時から反日的であったニューヨークタイムズですら、「日本軍は事態の悪化を防ぐためにできる
限りのことをした。だが中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまった
のである」と書いています。(1937年8月30日付)

上海と福建の副領事を勤めたラルフ・タウンゼントも、
第一次上海事件時も、在中の米英と役人たちやビジネスマンの声として、
「我々がやるべきだと言ってた事を日本軍がやってくれたと」述懐している。





第1ポイント:盧溝橋事件では、事件勃発4日後に結ばれた「現地停戦協定」第1条で
「中国側に責任があり、責任者を処罰する」と書かれていたことを無視しています。
 第2ポイント:本格的な戦争は盧溝橋から約1ヶ月後に起こった上海事変です。当時
反日的であったニューヨークタイムズですら、「日本軍は事態の悪化を防ぐためにできる
限りのことをした。だが中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまった
のである」と書いています。(1937年8月30日付)
[37] 名前:名無しさん :2015/02/21 (土) 22:09:20 No.488
すべては幣原外交の失敗
その人が戦後の総理
不幸は続くわけだが
  竹島は日本の領土です。同意ならチェックを入れてください
投稿前に必ずここを読んで下さい
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